インスタレーションという仮設は消えて無くなる表象手法である。The new york earth room(1977),The broken kilometer(1979)などで知られるWalter De Maria(1935~)のように時には印象的な仮設を常設とする試みもある。けれども喪失する前提で行われることがほとんどであり、それ故の展開がインスタレーションである。
作家の「ものをつくる」という立ち位置が、画布や彫刻材から時代によって剥離され「コトを成す」極端にいえば「生きる」とまで突き詰める形態が現れ、サイトスペシフィックであれパフォーミングなものであれ、意識を投影表象する人間が更に影響し合い、素材と動機を自在に探索し場所を求める姿勢は、奇妙なものではなくなった。
この国にも「霽れと褻」という日常からの差別化の慣習が祝祭という仮設状況において連綿と経験されており、神楽や神輿あるいは冠婚葬祭なども、インスタレーティブに淡々と展開している。ただしこれらは雛形を繰り返すことで記憶化される。
インスタレーションは消えて無くなるのだから、物をこしらえ売ることで生業とする営みとしては成立しない。けれども作家らがなんとかしてそれを行うのは、意識と欲望に促されるのであり、確かに仮設の空間は他の表象では体感できない種類の経験あるいは世界を与えてくれる。今回のオブセオルタナティブの仕組みは、美術家の松田朕佳が事前にリサーチした小布施都住に在る、過去キノコ工場として使われていた花井裕一郎氏宅倉庫の一部分を、インスタレーションを行う場所と空間と定め、数回に渡り非公開にて空間構築を行いその経緯を、映像作家の丸山玄太が、彼自身の自立作品として撮影し、梅田版画工房の協力で大型出力(UAO)したもの及び限定部数の小冊子を展示展開する。松田はこのインスタレーション構築展開に平行して空間に自らの軀を与えるパフォーミングなアクションを加え、公開展示会場である、おぶせミュージアム・中島千波館・木造館にて、非公開インスタレーションの経緯で成立した展開(インスタレーション+パフォーマンス+α)を新しく行う。
言わば映画撮影的な進行で進むこのプロジェクトは、一見、松田と丸山の「主と従」「メインとサポート」あるいは「役者と監督」という浅薄な印象認識が降りるかもしれないが、インスタレーションという儚い状況に対する記憶化をふたりの作家が平等に行うのであり、互いが互いをこの場所での存在根拠・拠り所として作品成立させるしかない。丸山の作品が松田の記録すべき顕われとは異なるみつめとなるだろうし、そういう意味で非情に際疾いものであり、この震える輪郭が記憶化を促す仕掛けとなる。変哲のない従来の箱へユニーク(個人の自在)を並べるような姿勢で行う「展覧会」ではなく、人間の能力を場所において活性し、その行方を示すことが、このプロジェクトの醍醐味でもある。ゆえにこうした取り組みをシステムとしたわけであり、作家たちはこの企画において制作を促され、この場所において「だから、こそ」という新しく示す形が生まれるといっていい。
文責 町田哲也 / 計画者
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